ご飯のゆげ

ご飯やお菓子を作ったり食べたりします

季節を感じられる事の有り難さ

まずは今日のご飯のことから書き始めようと思います。


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今日は、お義父さんから頂いた手延べ素麺、揖保乃糸を湯がいて出しました。きちんとした化粧箱に入っているお素麺です。白、ピンク、多分緑色の麺が入っていたと思います。味は全部おなじです。


茄子と鶏肉とにんじんの煮浸しは、冷蔵庫の中の賞味期限が近い食材を使わねばならなかったので、素麺にかけて食べようと考えた結果、ごま油、砂糖、酒、しょうゆを大さじ1、麺つゆ(我が家は4倍濃縮)を50ccほど、水150mlで作った。思った通りの味が出たので嬉しかったです。


さて、本日は珍しく、暑い時間帯なのに30分ほど散歩に行ってきた。家の近所をブラブラとアテもなく歩いて、帰りたくなったら折り返して帰るっていう感じの。10時半くらいに出発した。玄関を開けて外に一本踏み出した途端、私の身体を太陽の光が突き刺した。本当に、このからだのど真ん中に穴が空くんじゃあないかと心配した。触って確認したけれど穴は空いてなかったので、そのまま散歩を続けることにした。


暑い時期は言わずもがな苦手である。けれどその反面、こんな暑さでなければ、絵の具の水色をひっくり返したみたいな空の青さや、入道雲の大きさを感じて夏が来たなと実感することは無いし、田んぼの中にいるジャンボタニシを見て気味悪がったり、道路でペシャンコになったミミズを目にすることも無い。つまり、人間が持っている全ての感覚で季節を感じることが出来るという事は、大変に幸福なのだと私は思う。


散歩をしながら考えた。私は夏が嫌いだと思っていた時期が確かに存在していたけれど、最近、苦手なだけであって嫌いではない、ということに気が付いた。暑いのは得意じゃないけど、夏特有の風景などはむしろ好きだと言える。しばらく帰ってないけれど、以前は父親の実家に毎年、お盆の時期になると帰っていた。父親の実家は九州にある。山奥に民家が数件だけ、あとは田んぼと川、畑があるだけ。ちょっと車を走らせたら一応スーパーやドラッグストアがあるけど、ド田舎と言って差し支えないような場所だ。


確かに不便だと思うけれど、それ以上にそこには私がずっと好きでいられるものがたくさん詰まっている。田んぼに生えている宝石みたいな紫色の実、畑ですくすく育つトマトの赤や牧草の匂い。家の下にある川が流れる音。祖父母が飼っている牛の鳴き声。数えきれないほどある。


そこに今度、高速道路が走ることになったらしい。あんな辺鄙なところ、高速道路は必要無いと思う。そんな物がなくたってたくさん他所から観光客は来ていたし、高速道路が走るということは車の往来が増える、それに伴って自動車の排気ガスが増えるんだから猿でもわかることだが生態系が崩れる可能性が非常に高い。


みんな反対したのだろうか。やっぱり若い人間が居ないから難しかったんだろうか。私が何か役に立つような分野で勉強して意見できるような立場になってその地域に住んでいれば何か変わった?否、何も変わらない。誰が何をどうやったって、現実は変わらなかっただろう。


祖父母の家の近くには蛍がいる。蛍が居なくなるかもしれない。昔読んだ文献に書いてあった、蛍は特に環境の変化に敏感だから、空気が綺麗で、水が綺麗なところでないと生きることが難しいと。最後に私が蛍を見たのはいつだ?学生時代に課題のために帰って、夜の20時頃に一眼レフを構えたのが最後だったと思う。それからは理由をつけて一切帰っていなかった。蔑ろにするようなことをした、私への罰かもしれない。今、この文章を書いている瞬間だって泣きそうになっている。ごまめの歯軋りも良いところ。


何が言いたいかというと、当たり前がいつまで当たり前で在るか、という一言に尽きる。私も含め、人間にできることや時間は残念ながら限られているけれど、その中で自分が何をやって考えたか、その密度によって、いつか身の回りにある当たり前が当たり前じゃなくなった時、自分自身を許してあげられる材料になる。そのように思います。